野依先生がとうとうお怒りになった。
事業仕分けで科学技術関連予算に厳しい判定が下ったのを受けて、「科学に対する予算は対費用効果ではない、将来に対する投資である」と仰った。
正論である。
しかし私は同時に一抹の違和感も覚える。
なぜならこうした声が当事者から挙がることにはどうしたって利害という側面も付きまとうからだ。
フィールドが変われば、ダムにだって道路にだってそれぞれの正論はある。
昨日の新聞で誰かが述べておられたが、問題は民主党政権が明確な国家ビジョンを持たないままこうした仕分け作業に手をつけてしまったことだと思う。
そりゃそうだ、何が優先で何が二の次かが決まらなければ、一律に削るしかないんだから。
例えばですよ、選挙で多数を取った政権が「日本はもう一度農業中心の国づくりに立ち返るんだ」と言えば、科学予算もいきおい生物学とか遺伝子工学中心になっていくだろう。その場合、当然物理学は二の次になる。
100人いれば100の正論がある、ということを認めるのが憲法でいう良心の自由であり、その中から多数の意見を汲んで現実の選択をするのが民主主義というものであろう。
同じ違和感から私は、文化振興基金を始めとする文化関連予算が大幅にカットされる事態に対し声を挙げよう、という呼びかけに呼応することが出来なかった。趣旨に反対するわけではないが、違和感の源が何かを考えているうちに時間が過ぎてしまったのである。
上記の原則に照らせば、演劇人は文化予算の確保を国民の大多数の声にしていかなければならない。
だが、一向に仕事帰りに観劇に、とか週末はちょっとおしゃれして劇場でデート、なんてのが一般的な慣習になりそうもないこの国で、果たして演劇人の主張は正論足りうるのか???
いや、私なりには一言ありますよ。
先日書いたように、若者の共感力が弱まっているこの国で演劇を教育に取り入れることは社会を救うことであり、正に将来への投資に他ならない。
この点で私は平田オリザ氏の取り組みを断固支持する。
しかし、それは現在の助成制度とはまた別の話だ。

