先日のテレビ塔パフォーマンスにコメントを頂きました。
ありがとうございます。
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昨日、パフォーマンスを拝見させて頂きました。
ありがとうございました。
あれこれ勝手な感想が浮かんできましたので、それを忘れないために書き留めました。
以下、お送りさせて頂きます。
(勝手な思い込みと記憶違いはお許し下さい。)
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今朝目覚めたとき、不意にジャコウネズミのパパが手招きする姿を思い出した。それは、昨日のパフォーマンスが始まる前だったか、始まった後だっ
たか・・・。テレビ塔の下、彼の周りには人影はなく、ただ銀のテーブルとイスが広がる。こちらに向かって手招きする仕草に、私は答えなかったし、他に答えたものもいなかった。彼の手はその目的を果たせないまま虚しく収まる。
今思うと、彼の周りに広がるのはテーブルやイスではなく、銀の海。ならばそんな死の世界に飛び込んで行けるほど思い切った人はそこにはいなかった訳だ、私を含めて誰一人。しかし、行くべきであったのだろう、パフォーマンスを見るとはそういうことだ。
その後、人ごみに向けて歩き出すジャコウネズミのパパ。少女に近づく彼の姿
は印象的であった。(なぜだか私は子どもの頭をくわえるマネをする獅子舞のことを思い出した。)それは必死で不器用なコミュニケーションとも取れなくもない。そう、おそらく彼はそれを求めて、あの銀色のテーブルの海から人ごみへとやってきたのだ。人々の日常の中へ。にもかかわらず、彼の周りには常に数メートルの空間が存在した。それがすなわち彼と人々との埋められない溝。唯一その溝を超えられていたのは、一眼レフを構えたカメラマンたち。
獅子舞の獅子となれなかった彼は、ついに池へと身を投げる。池の中で踊る行為は、自然から力を授かる行為にも見えた。池から上がった彼の体は、みなぎる力を現す水に覆われていた。そして今一度、人間にその踊りを見せつけたあと、ゆっくりと銀のテーブルの海へと帰っていった。
舞台ではなく、日常空間でのパフォーマンスとはどのようなものなのか。期せずして観客となった人たちとパフォーマーとの距離感。
パフォーマンスの後、自らの意思で観客となるために出向いていった私は、パフォーマーとの距離が、時に近すぎるカメラマン達を否定的に捕らえていた。『誰しも経験があることだがファインダーを覗くと自身の身体が消えてしまう。そしてあの存在感の塊ともいえる一眼レフを含めたカメラマンという存在が、パフォーマンスを撮影会へと化してしまう。』と。
しかし、今朝、手招きするジャコウネズミのパパを思い出したことから芋づる式にたどり着いた感想は、、、
それほどまでにカメラマン達を際立たせてしまった、期せずして観客となった人たちの反応とその距離感。カメラマン達も、そのほかの人たちも、あのような場所でのパフォーマンスとの関わり方、楽しみ方に慣れていないのだろう。勿論私も。
メリハリ、見るところと関わるところ。
日常と非日常の『際』の楽しみ方。自由な行き来。
篠田 竜太
