
金沢へ来れば外せないのが21世紀美術館。
この日開催されていたのは、杉本博司「歴史の歴史」展。
これが微妙なものでした。
「アートの起源は人類の起源と時を分ち合う、それは人間の意識の発生をもってその始源とするからだ。」
というのはよく判ります。文化とは全くそういうものだと私も考えます。
そして、
「私のアートとは私の精神の一部が眼に見えるような形で表象化されたものである。」
というのも、完全に同意します。
つまり、コンセプトには諸手を挙げて賛成なのですが・・
コンセプトから表現を展開するにあたり、歴史と自己との関わりを探るため、化石から仏画から古今東西のあらゆるものを収集する。この態度は素晴らしいと思います。
しかし、企画展の中に、集めた化石をただ並べただけの1室、仏画を並べただけの1室、があるのはどうも納得がいきませんでした。
ベッドの上に化石が横たわった「作品」も、2つの時間と空間を結びつけるものだと理解はするのですが、それでこちらのパッションがどう動くかは何とも微妙。
作品は自己の所有に帰するものではない、というのもマルセル・デュシャン以降、もはや常識だと思います。
それでも、この日の幾つかの展示室で、デュシャンの「泉」の前に立たされた時以来か、それ以上の困った感を覚えずにはいられませんでした。
もっと困ったのは、別の部屋では震えるほどの感動、その部屋に溶け込んで自分が溶解してしまいそうな誘惑感、どうしようもなくその場を立ち去りがたい寂寥感を味わったことです。
東西の様々な写真が丸い展示室の壁面をぐるりと囲み、その真ん中に仏像が静かに置かれている。
静かに息を呑みましたね。「人類の起源と時を分かち合」い、かつ「私の精神の一部である」時間そのものがそこには形を成して、正に在ったのです。
抽象写真と別の仏像との組合せの部屋もあり、こちらでもやはり血が凍りついたまま迸るのを感じざるを得ませんでした。
同じコンセプトに基づきながら、突き動かされるような衝動を与えてくれる作品と、ぴくりとも針が動かない作品。
そのどちらも私であり、アートとは、人間とはそういうものだ、と作者は言うのでしょう。困ったもんです。
本当に困ったものです。
しかし、どこかで「杉本博司」の名前を目にしたならば、迷わず私は足を運ぶでしょう。困ったものです。