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うりんこ『御伽草子/戯曲』を観る

うりんこ『御伽草子/戯曲』、初日を観て来ました。

とても良かったです。
永山台本×三浦演出なんて豪華な組合せを、よりによって名古屋で観られるなんて、行かなきゃ嘘ですよね?

三浦演出もですが、今日は何といっても「作・永山智行」という罠にはまりました。”劇作家とは何か”を常に標榜しているという永山さんならではの心地よい罠でした。思わず上演台本買いましたもんね。珍しいことです。

勿論、俳優も良かったです。色んな意味でプロですね、うりんこは。

今日は超満員でしたが、明日以降なぜかお席があるそうなので、是非是非お出かけ下さい!

無名塾『マクベス』

NHK芸術劇場で無名塾の『マクベス』を観る。

クライマックスで能登演劇堂の舞台後ろの大扉が開いて、夥しい馬が駆け巡るスペクタクル、って触れ込みにつられて最後まで観てしまったが、馬はたったの5頭・・。

とは言え、良質の新劇を見る思いがして飽きずに見続けたのも確か。
少なくとも『焼肉ドラゴン』なんかよりずっと良い。

俳優によって波があり、しばしば(その台詞、誰に向かって言ってんの?)と呟きたくなることもあった。けれど裏腹に相手の台詞を聴いている風情が皆さんとても良い。表情とか、そんなではなく、相手の言葉によって体が確実に影響を受けているのが判る。これが『マクベス』ではなく、もっと短い芝居を丁寧に演じられた舞台であったなら、もっと堪能できただろう。

まあ、シェイクスピアを現代人が上演するときに駆け足になるのは宿命のようなもの。少なくともテンションだけ高くて、けたたましいだけの蜷川演出なんかよりずっと良い。
これ以上を望むなら日がな一日上演するか、鈴木忠志のように演出意図に添ってバッサリ刈り込むか、ということになるんだろうな。

それにしても、仲代達也をじっくり見るのは映画「熱海殺人事件」以来だが、本当に不可思議な役者である。
この緊迫したシーンでこのなよなよした台詞、脱力した語尾はなぜ??
叫ぶときにはど迫力で叫び、動きの切れも抜群なのに、クライマックスの動きがやはりナヨナヨなのはどうして?
この出力の訳の判らなさは全くもって判定不能だ。けれどどんなに大勢出ていてもやっぱり目は仲代氏を追ってしまうのだから不思議だ。

演劇堂の素晴らしさも相まって、一度は生で観たいと思わせるテレビ観劇でした。

官房長官に物申す

平山郁夫さんが亡くなられた。

私は氏の業績を詳しくは存じ上げないし、作品を意識して観たことが未だにないのでコメントする立場にない。
なので、本来モノが言える立場ではないのだが・・

あまりに平野官房長官のコメントがひどかったので言わずには居られない。

曰く、「この方は、文化勲章・・だっけ、」

だっけって何だ、ちゃんと調べて会見に来い!
スポークスマンとして基本中の基本じゃないの?

そして、「であります。(中略)また東京芸大学長も務めた方でありますから、大変素晴らしい方であります」

一字一句この通りではなかったが、大体こんなことを述べておられた。

ドタマ来たね。何ですか?芸術家の値打ちを受賞暦や肩書きでしか評価できない典型じゃないですか。
会見の間、氏の画風だとか、文化財の保護活動に尽力したお人柄にはひと言も触れていない。あまりにも貧しいのじゃないだろうか?

仕分けなんかより、こっちの方に余程腹が立ちますっての。
おい、鳩山総理!長年の同志かもしれないが、こんな人に他の役職はいざ知らず、官房長官は絶対に務まりませんぜ。務めさせちゃいかんでしょう。
「コンクリから人へ」を売りにしているのに、人に対する見方がこのザマなんだから。
そのうち他の局面でも必ずや初歩的なミスをおかし大火事になることだろう。
そしたら貴方も一蓮托生ですよ。(そういえば前にも同じようなことして代表辞任していたね、この人)

どうしてこの会見に対して怒りの声が殺到しないのかが判らない。
この体たらくが日本人の芸術オンチを代弁している。だから助成金だって批評だって、いちいち頓珍漢なことになるはずだわさ。

そのことに全国の表現者の方々よ、歯噛みして地団太踏んで、抗議の意思を表明すべきではないだろうか。

Oh!金利恵!!

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金利恵 韓国伝統舞踊公演2009「韓舞 水と花と光と」を観る。

重要無形文化財保持者の舞を名古屋能楽堂でたっぷり1時間半堪能できるのです。何とも贅沢ですよね。

ワクワクしながら当日券を買い場内へ。
ほどなく開演ですが、あれ?どうも一幕・2幕とテンションが揚がりません。
観ているこちらの体調のせいかと思ったのですが、周りの拍手もパラパラなのを見るとそうばかりでもなさそうです。

無形文化財だからって訳でもないですが、こんなもんじゃないだろう。
だって、去年ソウルアートセンターで観た伝統舞踊はもう少しテンション高かったですもん。

などと悶々としていたら、3幕目の開始を告げる鐘の音が。お?明らかに今までと音色の迫力が違う。
果たして2幕までと何がどう違うということもないのに、以後は目が釘付け。
静かな手のしぐさも、激しい旋回も、水上を渡るような足の運びも。
クライマックスは踊りながら、大太鼓の乱れ打ち。
果たして今度は、会場割れんばかりの拍手喝さい!
お腹一杯になりました。。。

名手の舞をたっぷり堪能したおかげで、またアートセンターと違い能楽堂の近い距離で観られたおかげで、新たな気付きがいくつも。

足の運びは中国武術のようであり、手のしなやかさはバリのレゴンダンスのようであり、旋回は中央アジアの旋舞のようであり・・
朝鮮半島もまたシルクロードの途上であったということでしょうか。

また激しい動きの中にも、胸から腰にかけての体幹がしっかり止まっているのが印象に残りました。
これはもしかすると騎馬民族の伝統的な身体運用ではないだろうか?
激しく揺られても振り落とされないために、しかし手と足は柔軟に、とか?

韓国舞踊が習いたくなりました。
そうだ、来年はソウルに行こう!

「海辺のカフカ」読了。

村上春樹の読破は、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険(上)(下)」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド(上)(下)」「ノルウェーの森(上)(下)」「ダンスダンスダンス(上)(下)」「国境の南、太陽の西」「ねじまき鳥クロニクル(1)」ときて、カフカ。

読み始めたのが4月でこのハイペースは結構自慢してよいのではないだろうか。
読み始めの頃に、「村上春樹は私にとって納豆のようなもの」などと、村上ファン、水戸市民の双方からお怒りを買いそうな発言をしてしまった。
今でも相変わらずうまく言葉に表すことができないのだが、どうやら一つの確信が降りてきたようだ。

「海辺のカフカ」はこの作家のある到達点である。それもおそろしく高く、幅広く、果てしなく奥の深い。

こんなことは沢山の人が思ったり書いたりしてる訳だし、今さらにも程があろうが、しかし敢えてどうしても言っておかずにはいられない。
ここには村上氏の目指したリアリズムの完成形がある。圧倒的に。
だが、そのリアリズムとは、「日常的」という意味とは全く次元が異なる世界である。
うまく言葉にできないので結論だけを乱暴に書きつけるが、一言で言えばそれは不条理をも抱え込んだリアリズムなのだ。

氏特有の不条理は第2作の「1973年のピンボール」に早くも現れる。広くて寒い倉庫に一面に打ち捨てられたマシンとの対話がそれだ。
そして以降も「羊をめぐる冒険」の社会を裏から操る羊の存在、「世界の終わり~」で都市の地下に際限なく拡がる闇の世界、キキを殺したんだか殺してないんだかよく判らない「ダンス~」での五反田君の告白、といった具合に書き連ねられる。
しかしこの満ち満ちる一群のこれらの不条理さは魅惑的ではありながら、唐突で、やや浮き上がっていて、作り物の印象を拭えない。

それが「海辺のカフカ」では、日常的な描写とうまく折り合い、連続面を形つくるのに成功しているように思える。
主人公が深く分け入っていく森。これが死後の世界へ繋がることは誰もが読み取れる。しかしそれがとても自然な事のように感じられる。そして彼はそこに留まりたい誘惑に捉われながらも現実の世界に帰還する。これは正に現代版のイザナギの物語だ。
「世界の終わり~」で描かれた森があくまで虚構の世界におけるメタファーであったのに対し、カフカにおけるそれは現実と超現実が同じ地平で重なり合っている。そしてこれは日本人が太古から持ち続けてきた世界観を今の形として描き出しえた奇跡のような瞬間であったと思えるのだ。

そしてまたこのような膨大で不可解な水脈をもった作品がベストセラーになっていることもまた、もう一つの奇跡だと思えてならない。

沈思黙考、そして推移を注視せよ

繰り返しになるが、我慢ならないので言わせてもらう。

騒ぐな。

現段階で小沢民主党代表に「謝れ」とか、「辞任しろ」とか言ってる連中は、今の状況をサリン事件の河野さんに置き換えてみるが良い。
よってたかって冤罪に手を貸しているかもしれないという可能性を少しは想像しろ。

ある国では何かの事件で裁判が始まると、それまでどんなに騒いでいてもマスコミも国民もぴたりと口を閉ざすという。
自らの言動が公正であるべき判決に影響を及ぼすことを恐れるためだ。

私たちは事実関係を一切知る由はないのである。
事実は今のところ検察と当事者の内にしか存在しない。しかしそれはどちらも真実ではない。
その二つの異なる事実をぶつけ合い、妥当な真実を探るのが裁判という場所だろう。

漏れ聞こえた断片は事実のように見えるが、決して事実ではない。
マスコミはだから、それを断片として紹介すれば良いのだし、私たちは間違ってもそれを読んで、何かを知った気になってはいけないのである。

何度でも言う。私たちは何も知らない。現時点で何を言おうが全て推論に過ぎない。
なのに「謝れ」と断定できる方たちの存在が恐ろしい。
彼らはただただ今の空気に乗って酔いしれているだけだと思う。魔女狩りである。
しかもこうした人たちは反省しないので、空気が変わるとたちまち態度を翻す。サリン事件を見よ。

獣でも鳥でもない蝙蝠のような、声ばかり大きくて誇りのない人間の、なんと多いことか。

報道言語の無防備さを憂う

小沢一郎の秘書が逮捕され騒然となっているが、事の成り行きよりもマスコミの使う用語の無頓着さに危機感が募る。

みのもんたや古館は所詮所詮所詮(このぐらい強調しておけば取りあえず良いだろう)タレントだからどうでもいいとして、NHKのアナウンサーや新聞までもがこうまで無神経なのはどうしたことだろう?

彼らは、小沢代表の資金管理団体「陸山会」を巡る政治資金規正法違反「事件」という。
しかし小沢氏の秘書はまだ拘置され取調べを受ける段階である。かつてのリクルートの時は、テレビも新聞も捜査段階ではリクルート「疑惑」と呼んでいた。取調べが進み、起訴に到って初めてリクルート「事件」という呼称を使ったのである。それも、「昨日検察特捜部が○○を起訴しましたので、本日付けを持ってリクルート事件と呼称を改めます」という丁寧な断り書きを付けて。
だから立件という。だてではないはずだ。

たかだか言葉の違いと言う勿れ。決して、決して、決して、、エンドレス。

検察権力は疑わしい人物を拘束して取り調べることができる。
が、その中には冤罪というものがあり得る。サリン事件での河野さんがいい例である。であるから私たちは逮捕されたからといって、その人が犯人であると考えては絶対にいけないのである。

あれほど苦い先例をつくったのに、今日もあらゆる媒体が無防備に「事件」「事件」と言葉を振りかざしている。まるで魔女狩りである。
確たる証拠が固まり起訴されるまで、いや最終的には最高裁で判決が下りて被疑者の有罪が確定するまで、疑わしきは検察の方でなければならない。
これが冤罪から私たちを守る唯一無二の盾であるはずなのに。

昔はある人物が逮捕されるとたちまち報道で呼び捨てにされ、犯人扱いされていた。さすがにどうだということで、「被疑者」「被告」という呼称が生まれ、先に述べた「疑惑」と「事件」の使い分けが為されるようになったと思う。
言葉使いの裏には必ず、使う者の潜在的な意識が隠れている。
たかが言葉と言うなとはそういうことだ。

この国の人権意識はどうやら20年かけて、着々と衰退を歩んでいるらしい。

ドラマ工房プロデュース『鳶服の詩』を観る

先日新聞を読んでいて、市民芸術村の金山ディレクターの顔写真を見つけました。
「東京や他地域の力を借りなくとも、地元演劇人を結集すれば良い舞台は創れるはず」という意気込みを読んで、これは是非拝見しなければと感じたのです。
しかも2月13日(金)が初日ではありませんか!素通りしたら、人倫にもとるでしょ?

さて、観終わった感想としてはまず、芸術村と市民との接点を丁寧に探る、とても誠実な企画だと思いました。
市民対象の戯曲講座から生まれた作品を、市民と共同で創り上げる。そして上演空間が市民にとって居心地の良いものとなるために細かな配慮をする。

いわば「市民」と「芸術」をどう融合させ、本当の意味での「市民芸術村」をどう築き上げるべきかを問いただしながら創られた舞台ということになるでしょう。
しかもそれは在り来たりな市民ミュージカルとははっきりとした一線を画しています。それはやはり実演者自身が企画者でもあるからだと思います。
開場から終演に到るまで、場内には金山さんたちディレクターの思いの深さが込められていることが良く伝わってきました。

しかし、同時にこの空間では「市民」という像がやや均質なものとして思い描かれているようにも感じました。
表現に様々な振り幅が存在するように、市民の楽しむ芸術にも多様性があるはずです。
古典絵画が好きな人もいれば、印象派を楽しむ人、ピカソをこよなく愛する人、前衛絵画しか受け付けない人、様々でしょう。どこかに焦点を合わせることなど不可能です。満遍なく楽しませようとすれば、やはりどこかで空気は薄くなってしまいます。

また、ドラマ工房の実に魅力的な空間に対し、「市民」という対象ほどには、眼差しが注がれていないという気がしました。
紡績工場をそのまま活かしたこの巨大な空間に体を住み込ませるには、それ相応の準備が必要となります。そして普通の劇場では魅力的な声が、そのままこの空間に響くとは限りません。
結論から言えば、今日の舞台はドラマ工房でなくとも、普通の劇場で良かったと思います。逆に言えば、この劇場の企画スタッフは戯曲から作品を立ち上げる以上に、この空間にふさわしい表現とはどのようなものかを追求し続けなければならない宿命にあるのです。

空間と身体という点において、当地で長年実験的な活動を続ける演劇や舞踏の良き先例を私は知っているのですが、、、
ニワトリが先か、卵かはわかりませんが、金沢の地にドラマ工房が誕生し、一方でアンゲルスや新人類人猿、金沢舞踏館などの先鋭的な集団が存在するのは偶然でないと私は思っています。
けれども、どこかでこれら前衛劇団が敬して遠ざけられているような空気が感じられるのは、ちょっと寂しい気がします。

とはいえ、芸術村の挑戦がこれからも続くのは間違いないでしょうし、そこには地方都市で演劇を創造し続けること、芸術と生活の関わりを試行錯誤することの問題が不可避に反映されます。
だからこそ、実に多面体な困難が次々顔を出すのだと思えます。

金山さんたちの営みは対岸の鏡なのです。

杉本博司「歴史の歴史」展を観る

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金沢へ来れば外せないのが21世紀美術館。

この日開催されていたのは、杉本博司「歴史の歴史」展。
これが微妙なものでした。

「アートの起源は人類の起源と時を分ち合う、それは人間の意識の発生をもってその始源とするからだ。」

というのはよく判ります。文化とは全くそういうものだと私も考えます。

そして、

「私のアートとは私の精神の一部が眼に見えるような形で表象化されたものである。」

というのも、完全に同意します。
つまり、コンセプトには諸手を挙げて賛成なのですが・・

コンセプトから表現を展開するにあたり、歴史と自己との関わりを探るため、化石から仏画から古今東西のあらゆるものを収集する。この態度は素晴らしいと思います。
しかし、企画展の中に、集めた化石をただ並べただけの1室、仏画を並べただけの1室、があるのはどうも納得がいきませんでした。
ベッドの上に化石が横たわった「作品」も、2つの時間と空間を結びつけるものだと理解はするのですが、それでこちらのパッションがどう動くかは何とも微妙。

作品は自己の所有に帰するものではない、というのもマルセル・デュシャン以降、もはや常識だと思います。
それでも、この日の幾つかの展示室で、デュシャンの「泉」の前に立たされた時以来か、それ以上の困った感を覚えずにはいられませんでした。

もっと困ったのは、別の部屋では震えるほどの感動、その部屋に溶け込んで自分が溶解してしまいそうな誘惑感、どうしようもなくその場を立ち去りがたい寂寥感を味わったことです。

東西の様々な写真が丸い展示室の壁面をぐるりと囲み、その真ん中に仏像が静かに置かれている。
静かに息を呑みましたね。「人類の起源と時を分かち合」い、かつ「私の精神の一部である」時間そのものがそこには形を成して、正に在ったのです。

抽象写真と別の仏像との組合せの部屋もあり、こちらでもやはり血が凍りついたまま迸るのを感じざるを得ませんでした。

同じコンセプトに基づきながら、突き動かされるような衝動を与えてくれる作品と、ぴくりとも針が動かない作品。
そのどちらも私であり、アートとは、人間とはそういうものだ、と作者は言うのでしょう。困ったもんです。

本当に困ったものです。
しかし、どこかで「杉本博司」の名前を目にしたならば、迷わず私は足を運ぶでしょう。困ったものです。

二つの企画展

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今回の金沢は21世紀美術館で月末まで開催の「ロン・ミュエック展」が大きな目的。
美術館のホームページを見る限り、同時開催の「サイトウマコト展-SCENE[0]」も凄そうなので、合わせて観ることに。

サイトウマコトはグラフィックデザインの第一線で活躍する傍らで絵画も描きためていたということで、大規模な企画展は今回が初めてのよう。
人間の顔や全身の様々な表情が、ぐちゃぐちゃだったり、どろどろだったり、溶け出しているかと思うと、はぜてバラバラになっていたり。
色彩は鮮やかでどこかポップでさえあるのに、何ともリアルでグロテスク。
「人間の無意識な暗部」は潜んでなどいない、常にそれらは皮膚の表面に滲み出し、露出している。そう納得させられる力が、作品から放出していました。

そしてロン・ミュエック。テレビや映画で模型造りをしていた経歴を持つ彼の作品はリアルそのもの。髪の毛1本1本、顔のしわの1本1本、襞やたるみに至るまで体の語る声が聴こえてきます。
そのリアルな体のグロテスクさに観ているこちらの毛穴が開き、背筋が冷たくなります。
体調や気分の優れない時に観ると確実にどこかやられてしまうこと請け合い。

素材や手法は対照的でありながら、人間存在のグロテスクさを余すところ無く伝える両者の作品は深いところで通じています。
見比べることで我々は、世界観を磨き、多面化し、深めることが出来るでしょう。これは美術館の企画力の大いなる勝利でもあります。

もう一つ。ミュエックの作品は全くリアルでありながら、縮尺が大胆にデフォルメされている。それを観ている我々はその都度、ガリバーだったりリリパット人だったり。取り囲む観衆がいて完成する世界観だともいえます。
どんな劇場で演じられるお芝居よりもずっと演劇的、いやあ参りました。

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